2023年 10月 28日 VOL.217
新鋭クリストファー・ボルグリ監督の『シック・オブ・マイセルフ』 ― 撮影監督ベンジャミン・ローブが35mmフィルムを使って表現する高度な自然主義
クリストファー・ボルグリ監督作『シック・オブ・マイセルフ』より Images Ⓒ Oslo Pictures
自己顕示欲や被害者意識の強い現代人を風刺したクリストファー・ボルグリ監督の生々しいコメディ映画『シック・オブ・マイセルフ』は、撮影監督ベンジャミン・ローブにより、コダック 35mmフィルムで撮影されました。
主人公のシグネ(クリスティン・クヤトゥ・ソープ)と恋人のトーマス(エイリック・セザー)は、お互いに異常なまでのライバル心を抱き、常に相手を出し抜こうと考える歪んだ関係の間柄です。トーマスがデザイナーズショップから盗んだ家具で彫刻を制作し、現代アーティストとして頭角を現し始めると、劣等感を抱いたシグネはオスロの文化人が集う環境で自身の存在をアピールしようと一計を案じます。
シグネは闇ルートからお菓子のような色の鎮痛剤を入手しますが、この薬を過度に摂取すると肌に深刻な潰瘍(かいよう)が生じる副反応がありました。シグネの顔が醜くなるにつれ、友人たちから関心が寄せられるようになり、彼女が切望するSNSの「いいね」も集まり始めます。シグネはこの状況を巧みに利用して、人々に衝撃を与えようとします。
クリストファー・ボルグリ監督作『シック・オブ・マイセルフ』より Images Ⓒ Oslo Pictures
ボルグリが脚本・監督・編集を担当した本作は、ノルウェーとスウェーデンの合作による低予算映画です。2022年のカンヌ国際映画祭でプレミア上映されると、痛烈な社会風刺を見事に物語に昇華させているとして絶賛されました。
「観るべきコンテンツがあふれ返っているこの時代に、一風変わった頭脳と人生哲学を持ち、異質で斬新なものを生み出したいという熱意に溢れた作者が書いた物語だと思いました」。初めてボルグリ監督の脚本を読んだ際の感想を、撮影監督のローブはこのように語っています。「映画界の主流とはかけ離れた作品ですし、特にノルウェーではめったに出てこないような企画です。そんな作品を撮影できると思うと、胸が高鳴りました」
「最初の打ち合わせでクリストファーに言われたのは、シグネとトーマスの2人をレンズを通して外から観察するように、少々大げさに、でも自然に映し出したいという狙いです」と、ローブは振り返ります。「登場人物たちを笑いの対象にしないことで、この作品のユーモアとメッセージ性を浮き彫りにするのです。作中の彼らは、自分たちの心と出来事にとらわれているのですから」
『シック・オブ・マイセルフ』の撮影監督ベンジャミン・ローブ Copyright Per Larsson, 2022. All Rights Reserved.
「この作品はデジタルで表現できる映画ではない、とクリストファーは強く主張していました。私が重視するのは、その作品にふさわしい感情が湧きあがるか、いかに目で楽しめるかという点です。ですからフィルムで撮影したいという彼の意見に賛成しました。うまく説明できませんが、フィルムで撮ると映像、ひいてはストーリーにも情緒が感じられます。これはデジタル撮影では得られない感覚ですよね」
「そこで私たちはプロデューサー陣にフィルムで撮影したいと掛け合いました。当初はこの低予算では実現不可能だと断られたのですが、黙って引き下がらずに交換条件を提示しました。まず、33日間の予定で組んでいた撮影スケジュールを3日短縮して30日間に収めること。それから、フィルムの使用量と現像費用を考慮して35mmフィルムの2パーフォレーションで撮影することです。英国のコダックが十分なフィルムを提供してくれたこともあり、最終的にプロデューサー陣は全面的なバックアップを約束してくれました」
クリストファー・ボルグリ監督作『シック・オブ・マイセルフ』より Images Ⓒ Oslo Pictures
視覚面で参考となったのは、アルノー・デプレシャン監督の『そして僕は恋をする』(1996年、撮影監督:ステファーヌ・フォンテーヌ(AFC)、エリック・ゴーティエ(AFC)、ドミニク・ペリエ-ロワイエ(AFC))です。友人グループの動きを追いかけ、彼らが会話するシーンの扱い方、そして編集のテンポなどの撮影技術を参照しました。
ローブに概念的なひらめきが湧いたのは、ボルグリ監督のある構想がきっかけだと言います。ノルウェーの国民的な画家であるクリスチャン・クローグが描いた「病める少女」(1881年)と、同じく著名なエドヴァルド・ムンクの「病める子」(1907年)は、いずれも現代の工業化社会の暗部を描き出し、社会の論争を引き起こした痛々しい絵画ですが、この2枚についてノルウェーに今も伝わる誤った認識をボルグリ監督は作中で揶揄しようとしていたのです。
『シック・オブ・マイセルフ』は、2021年の夏に各日8時間、30日間にわたって撮影されました。初めの20日間はノルウェーの首都オスロで撮り、その後スウェーデンのヨーテボリに移りました。残りの制作期間は、そこでシグネとトーマスのアパートでのシーンを撮影しました。
クリストファー・ボルグリ監督作『シック・オブ・マイセルフ』の撮影現場にて Copyright Per Larsson, 2022. All Rights Reserved.
今回の35mmフィルム 2パーフォでの撮影にはARRICAM LTが使用されていますが、ローブはあえてアスペクト比を1.85:1に設定しました。カメラパッケージは、ローブがノルウェーで撮影する際に真っ先に相談するオスロのストーリーライン社からレンタルしています。
「元々の2パーフォレーションのアスペクト比であるワイドスクリーンは、2人以上の人物を同時に捉えるのに適しています。しかし私たちは、シグネとトーマス、特にシグネの人物像を画面の軸に据えたかったのです」と、ローブは説明します。「私たちは35mm 2パーフォ、1.85:1でのルックに惚れ込んでいました。いかにも映画的という感じにはならず、なおかつ人物同士の関係性も映し出すという、16mmと35mmの中間のような異質な印象を与えてくれたからです」
レンズの選択についてローブは次のように語ります。「フレーミングやカメラの動きが登場人物の行動と連動しているように撮るのが好きです。カメラそのものに注目が集まりすぎると違和感を覚えますね。人物に近づきすぎず、外側から覗くように撮るためには、焦点距離を長く保たなければいけません。ですからレンズはCooke S4シリーズとAngénieux Optimo 24-290mm T2.8 zoomに決めました」
クリストファー・ボルグリ監督作『シック・オブ・マイセルフ』より Images Ⓒ Oslo Pictures
フィルムの選定にあたって、ボルグリ監督とカラリストのジュリアン・アラリーが撮影前に検討できるように、ローブはテスト映像のグレーディングを行いました。その結果、屋内・屋外のデイシーンにはコダック VISION3 250D カラーネガティブフィルム 5207が、低照度やナイトシーンには500T 5219が使われることになりました。
「この2種類のフィルムは色調にいい意味でパンチを加えてくれるので愛用しています。ちょっとポップな感じに仕上げたかったんです」と、ローブは説明します。「タングステンタイプのフィルムだと彩度がわずかに下がることを知っていたので、私たちは全撮影の95%を250Dで撮影しました。限界まで露光しても素晴らしい結果が得られるからです。通常より少しだけ高感度なフィルムなので、映像にわずかな粒子感を加えることもできました」
クリストファー・ボルグリ監督作『シック・オブ・マイセルフ』の撮影現場にて Copyright Per Larsson, 2022. All Rights Reserved.
フィルムの現像処理と2Kスキャニングはシネラボ・ロンドンが担当しました。「シネラボ社とは他に負けない好条件で取引契約をすることができ、フィルムの現像やスキャンに関しても非常に丁寧に行ってくれました。彼らの静止画とディリーは驚くほどクオリティが高く、納品も迅速でした」と、ローブは当時を振り返ります。
「フィルムで撮影した場合、ラッシュがどのように見えるか、それなりに不安になるものです。ところが今回は早い段階で良い仕上がりになることがわかったので安心できました。しばらくの間、その作業について忘れていたほどです」
今回の撮影では、ファーストカメラアシスタントとしてウーラ・オースタッド、セカンドとしてロビン・オターセン、キーグリップとしてボブ・カーホがローブをアシストしました。照明はオラフ・ハッデランドが務めました。
『シック・オブ・マイセルフ』の撮影監督ベンジャミン・ローブ Copyright Per Larsson, 2022. All Rights Reserved.
「クリストファーは自ら編集も行う監督ですから、最終的に落とされる可能性のあるカットに余計な時間を費やすことはありません」と、ローブは証言します。「彼は一つのシーンを様々なバージョンで撮影し、物語をさらにコミカルにするために新たな演技を求めていくのが好きなのです」
「ですから、レンズを交換することなくカメラをリセットして撮影対象を再度フレームインさせることのできるアンジェニューのズームレンズは非常に便利でした。そのおかげで、初めにプロデューサー陣と約束した通りに撮影時間を短縮できたというわけです。また、そのような手法で撮影するとその場にいるのが自然になり、キャストの間にアットホームな雰囲気が生まれて、自由に演技できるという好影響もありました。実際、今回はほとんどの場面でアンジェニューのズームレンズを使用しています」
クリストファー・ボルグリ監督作『シック・オブ・マイセルフ』より Images Ⓒ Oslo Pictures
シグネとトーマスの競い合うようなセリフの応酬や、少しでも相手の上を行こうとする感情を描写するために、ローブはウィップパン(カメラを素早く横方向に動かす撮影手法)を使って2人を撮影しています。
「登場人物の間をカメラがピンポンのように大胆に切り替わるこの撮影技法は、彼らの関係性を際立させるのに最適でしたし、コミカルな要素も加えることもできました。準備期間中ははっきりとはイメージできていなかったのですが、実際に撮る段になってこの手法を使おうと思いつきました。撮影していて楽しかったです。私の背中に台本を貼っておいて、クリストファーがカメラの向きを変えてほしいと思った瞬間に私の肩を叩くんですからね」
ほんの少し上の自然主義を目指したいというボルグリ監督の意向と、俳優に自由に演技してもらいたいという配慮から、照明に関しては制限する方針を取ったとローブは述懐します。
クリストファー・ボルグリ監督作『シック・オブ・マイセルフ』より Images Ⓒ Oslo Pictures
「照明は可能な限り現場から離れた場所に設置してもらいました。俳優たちが立ち位置を気にしたり、障害物に芝居を遮られたりしないようにです。映画美術の観点からいうと、リアル感を強調する一方で、非常にシンプルにしようと努めました。インテリアには実際に使われている家具を多用し、窓の外から複数のHMIライトを当てて、俳優に向けているのは最低限の強さの指向性ライトだけという状況にしました。その結果、超写実的とまでは言えませんが、この作品の主題である自意識を強調できたと思います」
ローブは次のように締めくくります。「今回クリストファーと非常に密接な共同作業ができ、撮影の初めから終わりまでクリエイティブな意見を交わせたことは、私にとって大きな喜びでした。結果にはとても満足しています。この作品が表現手法の一例となり、何年経ってもフィルムメーカーの間で視覚的な共通言語として語り継がれるよう願っています」
『シック・オブ・マイセルフ』
(10月13日より全国順次公開)
製作年: 2022年
製作国: ノルウェー/スウェーデン/デンマーク/フランス
原 題: Sick of Myself
配 給: クロックワークス
公式サイト: https://klockworx-v.com/sickofmyself/